キャリアの隠れ家

キャリアの隠れ家

第50回 晩秋の一日、久しぶりに、長野の繁華街をのんびり歩いた。歩くから、考えるのか。考えたいから、歩くのか。

街歩きブームだという。特に若い人の間で、流行っているとか。

歩くといえば、西田幾多郎の「哲学の道」を思い出すような硬い人間なので、歩くことの意味を、ついつい、観念的に考えてしまう。

11月の日曜日、たまたま、長野の中央通りをぶらぶらと歩く会があると誘われ、参加してみた。2、3日前までは、晩秋の冷たい雨模様の空が、当日は爽やかに晴れ上がり、穏やかなお天気で、絶好のお出かけ日和に恵まれた。参加者のみなさんは、10名ほどで、皆さん、行いのいい人たちばかりかもしれない。

主催は長野駅から善光寺まで続く中央通りで、お洒落なカフェを商う若き店主。甲斐甲斐しく、参加者をアテンドしてくれた。散策のガイドさんは、在野の歴史研究家で、77歳にはとても見えない矍鑠ぶりに驚いた。店主は、「街中の魅力に、もっと目を向けて欲しい。街が元気になれば、人の暮らしも元気になる。我々のお店も賑わう」という思いから、始めたという。

さて、当日、長野の繁華街を歩いてみると、確かに、街も日々変ぼうしていることに気づく。シャッターを閉めているお店も目立つが、逆に、これまで長野にはなかったような、店主の感性を全面に表現した、魅力的なお店もある。その一つが、15年ぶりに長野に帰ってきた旧知のデザイナーが開業したばかりの「十二天」というお店。骨董や手作りの民芸品などをならべ、さらにそのデザイナーの書画のギャラリーもある。

街の変貌に疎くなったことにあらためて感じながら、そこに住み、そこで商売し、そこで働く人たちに、思いをめぐらしながら、3時間ほどの散策を楽しんだ。

歩くよりも車に頼るようになって、視界から消えたものが、ずいぶん多くあるように思う。車のスピードに慣れて、歩くスピードに歯痒さを感じてしまうと、身の丈にふさわしい行動に、微妙なズレが生じてしまうように思う。

そろそろ、歩くことのスピードをもう一度思い起こさないといけない年齢になった。歩きながら考えることに、なれないといけない。歩きながら、これから向かう行く先を、じっくり考える余裕を持たないといけない。

20代から愛読してきた秋山駿は、そのエッセイで、「今日も、まる一日歩き続けた…」と、よく書いている。22、3歳の頃の、「自分の内部と対峙することが生きることであった」時代の秋山駿の断章だ。

今の、若者の散策ブームが、秋山と同じように、自分と向き合うことを始めた兆しだとしたら、それはそれで、喜ぶべきことかもしれない。

平成23年11月25日