キャリアの隠れ家

キャリアの隠れ家

第79回 思春期を振り返り、60代の今にひきづる自分の面影を探してみたいが、反面、少々恐い気もする。思春期には、自分の弱さばかりを意識する、たいへん自意識の強い子供であった。

吉永小百合「私のベスト20DVDマガジン」第11号(講談社)


  60代も早くも半ばを迎えようとする日々、なぜか、思春期や青春期の頃の記憶を辿りたい欲求に襲われる。今の自分を形成している情緒的な特性の多くは、多分、いわゆる思春期や青春期において、形成されたと思うからだ。

   思春期とは小学校高学年から高校生ぐらいまでか。ちょうど、10代と重なるのであろう。人生は、記憶の積み重ねで出来ているというが、やり直しのできない人生の、そのガラスのように脆くもあるが輝いてもいるべきはずの10代をたどることには、少々、勇気がいるものだ。

   私が属する団塊の世代は、思春期とか青春という言葉の響きが、ひときわ似あう世代ではなかったか。その時期、街には、若々しい気分が溢れていたように思うが、私はその晴れやかさとは無縁な場所に生き、時代の精神から少々離れて生きていたように思う。

  それを象徴するように、小学6年生になって、私にとってとても憂鬱な出来事がおきていた。それは、迂闊なボタンの掛け違いのようなものであったように思う。小学生最後の年、児童会の会長を務めるようになったのだ。引っ込み思案な私にとって、児童会の会長になるなど、思いも寄らない出来事であった。

   この経緯は、あまり詳しくは覚えていないが、先生の勧めで、まさか当選しないだろうとたかをくくって、会長選挙にでて、見込み違いで、対立候補と得票同数で、それならばと、先生方から、前期後期と分かれて、二人で会長を務めなさいということになったのだ。

  人前に出ることよりも、後ろに控えておとなしくしていたいという自覚がある子供にとって、児童会の会長の役目を背負う歳月は、心重い日々であった。

  中学生に進学しても、小学生時代の「キャリア」は継承されて、生徒会の執行部に引っ張り出された。控えめにしていたい性分は、もちろん中学生になって変わらなかった。

  部活は、バスケットボールクラブに入り、3年生では、キャプテンになった。こうなると、嫌でも少々目立つ存在にもなって、同級生の女子から、再三、ラブレターをもらったりしたが、その後、当のご本人と一切口を聞くことはなくなり、まことに晩生であると共に、薄情な人間であった。

  中学生といえば、高校受験に触れないといけないが、ここでも、一つの挫折を経験した。勉強の成績はといえば、 国語や社会などは、比較的好きな科目で、クラスでもテスト結果などは上位であったが、数学や理科が苦手で、典型的な文系人間であった。それを克服しようともせず、受験を甘く見ていた結果、志望高校に不合格となり、今でいう、中学浪人をしている。

   浪人自体は、なぜかそれほどのショックもなく、両親や叔母たちの心配が、とうの本人にはピンとこなかった。浪人という中途半端な身分を楽しんでいたのか、吉永小百合さんのファンクラブに入り、会員カードが届くや、映画館に駆けつけていた。今でも鮮明に覚えているが、『青春のお通り』という映画だった。

   しかし、そんなお気楽な毎日はあっという間にすぎて、次の受験期にも、志望高校に確実に合格できるだけの実力は身につかず、安全圏にはいる高校を受験するという途を選ばざる得なかった。大事な思春期の1年の歳月は、水泡に帰した。

   さて、ここまで書いて、もうそろそろ紙幅がなくなった。そういえば、最近気ままに書き続けている内容が、どうも、ブログのネーミングでもある「キャリアの隠れ家」にはふさわしくないなあ、と思っている。また、ちょうど次号で80回を迎えるという区切りでもあるので、それを節目に、このウエブでの「キャリアの隠れ家」は、ひとまずピリオッドをうとうと思う。

   この先、81回からは、facebookの「ノート」で、公開することにしたい。本ウエブサイト上でお読みいただいたみなさまには、心からお礼を申し上げる。

   最終回となる次号80回は、高校生から大学生の前半、20歳までの「青春」を辿りたい。

平成25年7月31日
松井秀夫